■小野惠子の歩み

 
幼少のころ
 小学生のころ
 中学生のころ
 高校生のころ
 大学1.2年のころ
 大学3.4年のころ
 
 
■小野惠子プロフィール(お仕事じゃない編)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

■小野惠子の歩み

−−− 幼少のころ −−−
1964年3月27日14時33分 愛知県にて生まれる。
父(のんちゃん)、母(すー)、祖母、妹(やっこ)との5人暮らし。
とにかく歌が好きでちょっと高いところがあるとすぐに上ってマッチやらライターやら鉛筆やらをマイクがわりに持ち、持ってる力をすべて振り絞って真っ赤な顔で歌っていた。
レパートリーは童謡と「函館の女」。

3歳7ヶ月よりピアノを習いはじめる。
レッスンが終わったら喫茶店につれってってもらえたのでそれにツラレテ通っていた。
でも練習はいやいやで母にかなり怒られながらやってたらしい。
母「親と子の根くらべだった。」
でもあまりのさぼりようでまるをもらえないと父が怒って喫茶店に寄ってくれなかった。
惠子「ただ喫茶店だけが楽しみでついて来るやっこは呆然としていた」

年中さんから幼稚園に通う。豊橋市立女子高附属幼稚園。
青組と白組の2年保育。
お弁当が食べられなくてよく怒られた。

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−−− 小学生のころ −−−
豊橋市立栄小学校。
1年の時から円形脱毛症で髪の毛が抜けいつも帽子をかぶっていた。
なんでそうなったかはもう覚えてないけどすごく神経質な子供だったと思うな。
1年の時の「鈴木淳一先生」がとにかくすごく一生懸命私を助けてくれた。
いつも一人でいるかいじめられてるかの私を守ってくれたなあ。
ピアノの発表会にも来てくれてただ一人私の味方になってくれてる気がした。

毎日のように病院に通うが結局5年生までなおらなかった。
5年生になったある日すーと風呂に入ってたんだけど抜ける髪を集める私を見て初めて泣いた。
私はびっくりしてぼーっとしてしまった。
「変われるものなら変わってやりたい」
そういってすーは泣いていた。
私は神経質だったけど家族大事人間だったからいつまでも家族を泣かせてちゃいけないと思った。
それから勉強した。淳一先生や両親に私は大丈夫だよって伝えたくて今自分にできることって勉強しか思いつかなかった。

野外教育センターも修学旅行もつまんなかったけど、私は卒業式で送辞を読んで答辞を読んだ。
少しだけ両親に恩返しできた気がした。

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−−− 中学生のころ −−−
豊橋市立南部中学校。
病気のなおった私は今までの分を取り戻すかのようにいろんな事をがんばってたと思う。
っていっても勉強とかじゃなくて友達のほうね。
ピアノの先生に音楽の道に進むなら運動部はダメ!といわれ別に音楽をやるって決めてたわけじゃないけど合唱部に入った。
結構県大会とかまでいって有名だったから。
でも正解!楽しい3年間だった。友達もたくさんできて県大会にも行って「生きてる!」って気がした。
3年の時にやっこが1年で入って一緒に合唱コンクールにでたりしてね。

高校進学相談では音楽に進むことに決めた。(理由は勉強より音楽のほうがまだマシだったからデス。)

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−−− 高校生のころ −−−
桜ヶ丘高校音楽科ピアノ科。
豊橋にある唯一の音楽高校。
初めてショパンやリストを弾いた。
杉浦日出男先生はとってもすばらしい先生で私はなまけてばっかのムカつく生徒だったと思う。
この時代にもっとがんばっときゃよかったよね、ホント!
でも自分では最低限のことはやっていたと思う。

でも高校生活での私の自慢は3年連続体育祭の3人4脚で1位だったことだ!!
50メートル8秒3!すばらしいタイムでしょ?
3人でガッツポーズの写真は今も大切にとってある。

3年間ほんとに楽しかった。
高校の友達は今も私にとってそれはそれは大切な友達。

大学進学相談。
愛知県立芸大にするか?国立音大にするか?武蔵野音大にするか?
でも県立芸大は共通一次が当時5教科7科目。(気持ちわるい・・)(無理・・・)
そこで日出男先生に相談!
日出男先生「惠子さんは国立!」 決定っ!!

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−−− 大学1.2年のころ −−−
国立音大ピアノ科。
初めての一人暮らし。初めての東京。私は女子大生。
すーといろいろ買い物したりご飯食べたり準備した。
入学式が終わってじゃあねー、5月の連休には帰るねー。
そして大学が始まって2週間。私は友達が一人もできなくていつも一人で授業を受けて学食でランチを食べて。
部屋に帰っても何していいかわからなくて・・・。

そう!わたしはスーパーお嬢だったのです。
スーパーに一人で買い物に行ったこともないし洋服も化粧品も一人で買ったことないし、だいた
い化粧品ってどこで買うの?
味噌汁にダシを入れるって知らなかった。インスタントラーメンを初めて見た。
学食のカレー150円が高いか安いかわからなかった。
アイドルの雑誌を買うのは不良だと思ってた。ヴィトンのバッグを見ておばんくさいなあ茶色の バッグと思った。
「お茶する」を「日本茶を飲む」と思ってた。コンパに誘われたが夜だったので「昼ならいい」 と答えた。etc.
とにかく友達なんてできっこなかったことにその時は気づいていなかった。
ホームシックのため4月中に帰郷。
すぐにすーが一緒に東京に来てくれてなんとか連休までがんばった。

連休中にいろいろ話してやっと前向きにがんばる気になった。
父「人に迷惑かけなければお前の好きなようにやりなさい」
じゃあいっぺんコンパってやつに行ってみるか!・・・・・でもそのあと結局1度も誘いがなかった。

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−−− 大学3.4年のころ −−−
ちょうどこの頃父の会社が倒産!
それとやっこが高校卒業して東京の書道専門学校に入学。
二人で暮らし始めた。
二人ともバイト三昧。勉強する暇はまったくなかったな。
友達が玄関に缶詰めとかパンとか置いてくれたりパン屋さんに行ってよくパンの耳をもらってきたなあ。
大家さんの畑からなすを盗って弁当に入れたり(ごめんなさい)
やっことも時間がずれてさみしい思いをさせたよ。
私が自分勝手だからなんでもやっこに頼んでね。
 
二人ともお金ないから弁当を私が作って持ってってたんだけど、ある日少し時間があったからやっこの学校に昼休み行ってみた。
学食を捜したんだけど学食はないらしい。
学生はほとんどいなくてがらーんとしてる。
やっこはどこでお弁当食べてるんだろ?と思ってさがしたらなんか踊り場みたいなとこで一人でお弁当食べてた。
私はショックでしばし立ち尽くしてしまった。
私の大学には立派な学食があってみんなで一緒にお弁当食べてたのにやっこはずっと一人でこうしてお弁当食べてたんだ!
私の心は大声で泣いてた。
「やっこー!!!」
と叫んだらやっこはいつものようににこっと笑った。
次の日から弁当はやめた。
少しお金がかかってもみんなで一緒にランチにいってほしかった。
バイトを増やした。ロイヤルホストで朝6時から働いて学校へ行き終わったらまた夜中の2時まで働いて仮眠をとった。
願い事がひとつ叶うなら翼はいらないから睡眠時間がほしかった。

ピアノを弾く時間はほとんどなく単位も危ないものだらけ。
卒業はむずかしかった。
大学4年の時父と母が東京にでてきて4人で暮らし始める。
貧しいけど心の支えになった。
大学を続けることが難しくて「やめたい」と思って母にいうととにかく大学だけは卒業してほしいといわれた。
もう疲れすぎて死にそうだった。
原宿を母とただ歩いた。
なけなしのお金でコーヒーを飲んだ。
おいしかった!あと少し、がんばろうと思った。

卒業者発表の日、「中川惠子」の文字を見つけたとき涙が溢れた。
昭和61年の3月、私は国立音大を卒業した。

・・・つづく

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■小野惠子プロフィール(お仕事じゃない編)                  
 
・名前の由来 「恵まれた子になるように」by父(そのまんまじゃん!)
 
・好きな食べ物  ステーキ、焼肉、そば
 
・嫌いな食べ物  トマト(これだけ!あとは何でも食べれる)
 
・好きな言葉 「健康第一」(ほんとにそう!)
「満足を感動に」(いつもこの気持ちで前向きにがんばる!)
 
・好きなもの オリンピック(とにかくがんばるってすばらしいよね!)
綾小路きみまろ(笑える。つぼにはまっちゃってるよ)
音楽に関するグッズ(バッグとか筆入れとかポーチとか全部音符とかピアノ柄。 家にもいっぱい集めてます。)
 
・好きな映画 「釣りバカ」「ラブレター」(香港)「きたきつね物語」 (ゴダイゴがテーマ曲を担当)
 
・趣 味 温泉(半年に一回どっかいってる。昔は箱根、鬼怒川、 伊香保が多かったけど最近は伊豆だあ)
 
・好きな花 桜(美しい!)
 
・好きな人 家族がいちばん!(優等生だ、つまんねー。)
 
・家族構成 夫、息子(3歳)、舅、姑。(主人の親と同居する長男の嫁。おおーっ!)
山梨に実の父、東京に実の母、(離婚ではないが仲は悪い)横浜に嫁いだ妹。
 
・身 長 158cm
 
・体 重 んんーっ?あれ・なんだっけ?(んな訳ないだろ!)
 
・BWH 上から85、58、85!(ごめんなさい。うそをつきました!)

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